この先、林泉寺の前を左へ行くと大塚の名が出たという拓大西門に出て、まっすぐの緩やかな坂を行くと茗荷谷駅にでる。
富士坂ともいわれ、富士山がよく見えた坂であったという。藤坂の名は坂下にある伝明寺(通称藤寺)に家光が立ち寄りその見事な藤に因んで命名したともいう。ご多分にもれずマンションが坂上に建ち、この写真の跡形もない。工事中 富士坂の由縁を少し忍ばせる眺めが見られた。
坂の下は上を地下鉄が通るという珍しいトンネル。トンネル工事で出た土砂を箱状のコンクリートにいれ茗荷谷をかさ上げし、地下鉄車庫 線路にした。
文京区の中でも際立って学校が集中しているのがこのあたりであろう。 お茶の水大、拓殖大、筑波大学校教育部,放送大学学習センター、お茶大付属 小中高、筑波大付属小中高、跡見短期大、中高、東邦音大中高、貞静学園中高、国際仏教大学院大学、区立中小学が7校と 散歩をすると制服姿の生徒が目に入り、外人留学生のいろいろの言葉が耳に飛び込んでくる。また、企業団体の研修所も多く存在している。4年後には中央大学法学部も茗荷谷にくる。
林泉寺の縛られ地蔵
切支丹坂を下り、地下鉄の車庫下をくぐるトンネルをぬけると この坂が目の前にあらわれる。 坂下に庚申塚があったことからこの名がついたという。階段を上りきると 春日通である。 このあたりはトンネルが4つある 。これは 茗荷谷を地下鉄の残土で生めて車庫を作ったときに 掘ったのではなく トンネルの上に土を盛ったのである
付属横坂という名は初めて聞く人も多いと思う。文京区教育委員会発行の「ぶんきょうの坂道」にも大きな坂にもかかわらず、その名は載ってなく。 昔は切り通しと呼ばれていたと記憶する。この名をはじめて目にしたのは平成16年8月14日の朝刊紙上である。
この坂は文京の坂にふさわしく両側を学校で挟まれた坂でありその学校に行くにもこの坂から更に坂を上らねばならない。区立音羽中と筑波大付属中高がその脇坂の上にある。そして、坂の上にはお茶の水大学、教育センター、跡見学園がある。
昔を知る人は途中に個人宅としては珍しいトンネルがあり、清水の滴る坂道を思い出すであろう。
茗荷谷の北端に位置する双又の坂。拓大東門より緩やかに茗荷谷駅へ上るまっすぐな坂と途中を左に折れて 拓大西門へと上る急な坂である。この坂の下に昭和30年前半までは湧き水がわく島もある小さな池が拓大構内にあり、近所の子供たちのよき遊び場であった。江戸期の地図を見るとこの池あたりから小川が流れ出し、蛙坂、富士坂、庚申坂の下を流れ 荒木坂と今井坂の間から神田川に流れていたことがわかる。又、この坂の途中には時代小説によく名が出る縛られ地蔵の林泉寺がある。
拓大への坂は近所の方の丹精込めた草花が目を楽しませてくれた風情のある坂であった。この坂も道路拡張となり、味気ない坂へと変わってしまった。
広く明るくなった坂はさびしい限りである。
上りきると、春日通りがすぐ目の前に見え、渡ると植物園へ下る吹上坂に入る。
をクリックすると坂の姿がみられます。
地図中の
小日向台を歩く
音羽の今宮神社のわきを小日向台に上る二つ折れの石段である。最初の坂を上り、左に折れた2番目の坂の途中に石川啄木の最初に下宿した場所があり、上りきると鳩山会館の裏通りになる。
音羽の谷を上り 今でこそ、地下鉄の車庫に盛り上げられてしまっている茗荷谷までの台地を小日向台という。昔は茗荷谷には池が2ケ所あり そこから 神田川まで小川があった。そして、名のごとく茗荷がおおく生えていたという。
茗荷谷から春日通りに上る坂で坂上には徳雲寺があるある。夏目漱石の菩提寺でもあるという。漱石の墓はここから付属横坂をおり音羽にくだり護国寺を近くの雑司が谷墓地にある。
切支丹坂を下り、トンネルをいくと庚申坂が見えてくる。そのトンネルは右の地下鉄車両の下を通っている。
服部坂が左に折れる右側に福勝寺を曲がって下る細い坂がある。このあたりは昔、武家屋敷が多く、その屋敷の間にあったためその名がついたという。
坂下は神田川に架かる古川橋、坂の両脇は区立五中(廃校)の校庭と体育館 坂の登り口に坂を跨いでの渡り通路が作られている。上りきって左に小日向神社を曲がると少し緩やかな坂が待っている。坂上に服部氏が住んでいたことから服部の名がついた。
文の京(ふみのみやこ)観光ガイドより(文京区、文京区観光協会)
富士見坂の途中を西に坂下通りを行くと この坂と出会うこの坂の南には豊島岡御陵、護国寺がある。
春日通りと不忍通りが交差する坂上が海抜28.5mと区内の坂道の中で一番高い坂道。富士がよく見えたのでこの名前がついたと言われるが、年々 建物が視界を狭めてごく限られた坂の途中からわずかに見られるようになってしまい 名ばかりの坂となってしまった。2012年都内で富士山が見える2ヶ所の富士見坂
上り坂の左へ上り音羽中校内へ
更に上り右上り筑波大付属中高校内へ
音羽中の手前、門扉が開くのを楽しみにしたトンネルはマンションの通路になってしまった。
左に折れてからの石段、啄木下宿跡の説明文が立てられている。
今宮神社を右手に小日向台に向かう最初の石段
華水橋を渡った坂下に会った妙足院の大日如来を祭る大日堂に因んで大日坂といわれるようになったという。また、この坂上に昔、田中八幡社があったので八幡坂とよばれたこともあったという。現在、坂上には猫の額のほどに地に小庭園風の場所が設けられている。
他の坂と異なる表示
左手に福勝寺を見ながら下っていく。このあたり播磨坂から環状3号線が延びる計画がいまだにあり、建造物に制限があるという。
このあたりは江戸時代より寺が多く旗本屋敷が連なり、さびしいところであったらしい。野狐がでて、人をだますようなことを思わせるさびしいところであったらしい。野狐のことを野罐といったことことから野罐坂(やかん坂)呼称されていたのが薬罐坂になったといわれる。
荒木志摩守の屋敷が坂上にあったことからこの坂の名になった。
1711年頃に新たに作られたので 新坂とよばれたが 坂上の屋敷内に今井四郎兼平の名に因む桜があったことから、今井坂ともいう。この坂上が徳川慶喜が大正2年に歿した地である。
1643年から1792年まで九州で捕らえられた宣教師が 収監された宗門奉行井上筑後守政重の下屋敷が坂上にあったことから切支丹坂とよばれた。 現在、坂上に石塔が建てられている。
小日向台から神田川に流れていく小川があったという茗荷谷に下る坂である。
この坂の両脇に湿地があり、蛙が多く蛙の声がにぎやかなのでこの名がついたという。この坂の下は地下鉄が上を通るトンネルである。
昔はもっと見晴らしがよく富士も見えただろうと思わせる眺め、これが最後の富士坂となった。
付属横坂
音羽から小日向台へ上る急な石段。細長く狭く鼠が通るような坂、小日向村に鼠ヶ谷村という畑地があり、そこへ行く坂からその名がついた2つの説がある。坂の南側の傾斜地には季節折々の草木がその姿を楽しませてくれる
音羽から車で登れる2つ目の坂、他の坂が石段になっているのが納得できる急坂である。坂は3つに折れ、急な傾斜を一気に上らなくても済む。下総藩主久世大和守が住み一帯を久世山と呼ばれていたことから、近くに住んでいた,三好達治や堀口大学の父らの詩人が山城国の久世の鷺坂と結びつけてその名が生まれたという。坂の途中に 堀口大学の父が書いたいう古歌が彫られた石柱が建っている。
久世山にあがる3番目の坂
一息つける2番目の坂、この坂をまっすぐに行くと八幡坂の曲がり角に出る・
正面に石柱が見える最初の坂
左に折れて上りきる